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出品物 |
ご覧いただきありがとうございます。今回出品する品物は、写真の刀です。 銃砲刀剣類登録証番号 東京都 第327798号 種別 刀 長さ 73.9センチ 反り 2.0センチ 目くぎ穴 2個 元幅約3.0センチ 元重約0.8センチ 先幅約1.8センチ 刀身だけの重量約730グラム 銘 無銘 初出しの御刀です。令和6年4月に登録を取ってから研ぎにだして、研ぎ上がりましたので、 出品いたします。初公開の御刀です。 無銘ではありますが、茎は「繁慶」の繁慶茎の形をしています。珍しい形ですので特徴的です。 刀身は切っ先が小さく反りがあり鎌倉期の特徴がある刀身です。登録取たてで、鑑定に出して いませんので、詳しくわかりませんが夢のある御刀だと思います。 研ぎに出しましたので、錆や刃こぼれや刃切れはありません。長さも約二尺四寸あり、目釘穴 も上と下に2か所あり太刀目釘穴になっていますので、太刀として作られたのかもしれません。 是非鑑定に出してみても面白いと思います。 繁慶(はんけい) 江戸時代初期の「新刀期」(しんとうき)に入ると、諸国の城下町が日本における作刀 の中心となり、多くの優れた刀工が、各地から世に送り出されるようになります。その ほとんどは、大名のお抱え鍛冶であり、扶持(ふち:給与のこと)を給されて、鍛刀に 従事していました。「繁慶」もそうしたお抱え鍛冶のひとりです。 通称「野田善四郎清堯」(のだぜんしろうきよたか)と名乗り、一般的には、その姓で ある「野田」を冠して「野田繁慶」(のだはんけい)と呼ばれています 一方で本名の姓である「小野」を用いて、「小野繁慶」(おのはんけい)と銘を切った 作例も存在しているのです。繁慶は、通常「はんけい」と音読みしますが、正しくは「 しげよし」と訓読みします。 生年は不詳ですが、生まれは三河国(現在の愛知県東部)、代々鉄砲鍛冶を務める家系 でした。 このため、繁慶も長ずると鉄砲鍛冶の道に入り、出府(しゅっぷ:地方から江戸に出る こと)して、江戸幕府お抱えの鉄砲鍛冶「胝惣八郎」(あかぶりそうはちろう)に入門。 独立後は「清堯」を工名とし、武蔵国・八王子(現在の東京都八王子市)に移り住み、 鉄砲制作に従事し始めます。 八王子は、甲州街道の抑えの地であり、交通の要衝。当時は甲斐国(現在の山梨県)出 身の旧武田家臣が、「八王子千人同心」(江戸幕府の職制のひとつで、八王子に配置さ れた旗本などのこと)として配され、江戸防衛と、将軍の江戸脱出に備えて守りが固め られていました。 鉄砲鍛冶である繁慶が、毎年木炭1,000俵を給されて八王子に配属されたのも、同地の 持つ軍事的重要性と関係あってのことだとされています。 1607年(慶長12年)に「徳川家康」が駿河国・駿府(すんぷ:静岡市葵区)に移住する と、師匠の推挙を受けて随伴。「駿府城」下で鉄砲の鍛造を行いました。この駿府在住 時、繁慶は2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の命により、諸国の一之宮(いち のみや:ある地域において、最も社格が高いとされる神社)や大社に、鉄砲を奉納して います。繁慶が駿府にいた期間は、1610~1614年(慶長15~19年)頃。 鉄砲銘には、「野田善四郎清堯」や「日本善清堯」という表記を用いていました。作刀 も駿府在住時に始まっていたと伝えられ、「清堯」と銘を切った作例が稀に見つかって います。 ただし、駿府在住時の動向について詳しいことは分かっていないため、この当時に作刀 技術を学んだ師匠に関しては不明です。 1616年(元和2年)に徳川家康が死去すると、繁慶は江戸に帰還。鉄砲町に居住して本格 的に作刀に取り組みます。 従来は清堯と名乗っていましたが、この時期から繁慶の名を用い始めました。作風は「古 刀期」の「相州伝」(そうしゅうでん)を理想としており、俗に言う「ひじき肌」が大き な特徴です。 これは「大板目」(おおいため)が肌立って「地景」(ちけい)が入り、「松皮肌」(ま つかわはだ)となった鍛えを指します。刃文は「小湾れ調」(このたれちょう)の「乱刃 /乱れ刃」(みだれば)に、盛んに「砂流し」(すながし)がかかって「沸」(にえ)付 いており、「匂口」(においぐち)が沈む作風です。「茎」(なかご)は「薬研形」(や げんがた)と称する独特な形状です。 後は写真と画像を見て判断下さい質問はわかる範囲でお答えしますので、入札前にお願いします。 発送はゆうパックの着払いです。 ※注意事項※落札しましたら、登録のある教育委員会に名義変更届を出してください。 よろしくお願いします。 |
商品名稱 : | 初公開!登録取り立て・伝「繁慶」薬研茎・約二尺四寸!反りの強い小切っ先・鎌倉期の太刀姿・研ぎ済みの刀身!徳川幕府お抱え鍛冶! |
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