校庭に木刀が鳴り、模擬試験の鐘が虚しく響く中、不良の番長相馬吾郎が五十人の狼どもを率いてボイコットを叫ぶ。だが、半年の月日のうちに、五十人が数人に減り、優等生のガリ勉どもが教科書を抱えて逃げ散る。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは教室の上皮だけのことだ。昔、特攻隊の勇士が花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となるように、この番長の野望も、砂上の楼閣のごとく崩れ落ちる。けなげな心情で男を送った女達も、半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。だが、ここでズベ公の番長、内海はる恵なる少女が、闇から這い上がる。非処女の同盟、「アンチ・バージン・サークル」を結成し、ズベ公正統派の旗を掲げて、優等生の掟に反旗を翻すのだ。
いったいが日本の学校とは、古来婦女子の心情を知らないと言われる武士道の如く、皮相の見解で人間の弱点を抑える防壁ではないか。番長の仇討のため、草の根を分け乞食となっても足跡を追いまくらねばならないというのであるが、真に復讐の情熱をもって優等生の足跡を追いつめた不良があったであろうか。彼等の知っていたのは模擬試験の法則と法則に規定された名誉だけで、元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。相馬の叫びは、規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。この映画の喧嘩シーンは、木刀が空を裂き、血が飛び散る迫力があるが、少女たちのシーンとなると、息が詰まる。はる恵の瞳に、復讐の影が宿るはずが、ただの化粧の層。清純派の娘のに、涙の跡が光るはずが、ただの汗の粒。脚本の須崎勝弥は、野心家だ。優等生と劣等生の闘いを、受験の檻に閉じ込め、モラルの剣で斬る。だが、深みよ。深みが足りぬ。
私はこのズベの反乱に、極めて日本的な政治的作品を見るのである。ズベ公正統派は、ズベによって生みだされたものではない。少女たちは時に自ら陰謀を起したこともあるけれども、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥へ逃げたり、そして結局常に教育的な理由によってその存立を認められてきた。社会的に忘れた時にすら教育的に担ぎだされてくるのであって、その存立の教育的な理由はいわば教師達の嗅覚によるもので、彼等は日本人の性癖を洞察し、その性癖の中にズベを発見していた。それは非処女に限るものではない。代り得るものならば、処女の同盟でも、男の喧嘩でも構わなかった。ただ代り得なかっただけである。
少なくとも日本の教師達(校長や教頭)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼等は永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対的な優等生の必要を嗅ぎつけていた。戦後の学校は、模擬試験の擁立を自分勝手にやりながら、自分が優等生の下位であるのを疑りもしなかったし、迷惑にも思っていなかった。優等生の存在によって御家騒動の処理をやり、弟は兄をやりこめ、兄は父をやっつける。彼等は本能的な実質主義者であり、自分の一生が愉しければ良かったし、そのくせ授業を盛大にして優等生を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。優等生を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあったのである。
我々にとっては実際馬鹿げたことだ。我々は校門の下を自転車が曲るたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、或種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は校門に就てはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄に就て、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気づかないだけのことだ。番長は校舎の裏で優等生と果し場へ急ぐ途中、校長室の前を通りかかって思わず拝みかけて思いとどまったというが、吾教師をたのまずという彼の教訓は、この自らの性癖に発し、又向けられた悔恨深い言葉であり、我々は自発的にはずいぶん馬鹿げたものを拝み、ただそれを意識しないというだけのことだ。道学先生は教壇で先ず教科書をおしいただくが、彼はそのことに自分の威厳と自分自身の存在すらも感じているのであろう。そして我々も何かにつけて似たことをやっている。
日本人の如く権謀術数を事とする生徒には権謀術数のためにも大義名分のためにもズベが必要で、個々の生徒は必ずしもその必要を感じていなくとも、歴史的な嗅覚に於て彼等はその必要を感じるよりも自らの居る現実を疑ることがなかったのだ。はる恵は校舎の裏で自ら盛儀に泣いていたが、自分の威厳をそれによって感じると同時に、宇宙の神をそこに見ていた。これははる恵の場合であって、他の少女の場合ではないが、権謀術数がたとえば悪魔の手段にしても、悪魔が幼児の如くに神を拝むことも必ずしも不思議ではない。どのような矛盾も有り得るのである。
要するにズベ公正統派というものも武士道と同種のもので、女心は変り易いから「節婦は二夫に見えず」という、禁止自体は非人間的、反人性的であるけれども、洞察の真理に於て人間的であることと同様に、ズベ自体は真理ではなく、又自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察に於て軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない。
まったく美しいものを美しいままで終らせたいなどと希うことは小さな人情で、この映画の清純派の娘の場合にしたところで、転落などせず生きぬきそして地獄に堕ちて暗黒の曠野をさまようことを希うべきであるかも知れぬ。現に私自身が自分に課した文学の道とはかかる曠野の流浪であるが、それにも拘らず美しいものを美しいままで終らせたいという小さな希いを消し去るわけにも行かぬ。未完の美は美ではない。その当然堕ちるべき地獄での遍歴に淪落自体が美でありうる時に始めて美とよびうるのかも知れないが、二十の処女をわざわざ六十の老醜の姿の上で常に見つめなければならぬのか。これは私には分らない。私は二十の美女を好む。
死んでしまえば身も蓋もないというが、果してどういうものであろうか。この映画で番長が敗北して、結局気の毒なのは木刀を振るった不良達だ、という考え方も私は素直に肯定することができない。けれども、六十すぎた教師達が尚生に恋々として職員室にひかれることを思うと、何が青春の魅力であるか、私には皆目分らず、然し恐らく私自身も、もしも私が六十の教師であったなら矢張り生に恋々として職員室にひかれるであろうと想像せざるを得ないので、私は生という奇怪な力にただ茫然たるばかりである。私は二十の美女を好むが、老教師も亦二十の美女を好んでいるのか。そして不良の敗北が気の毒なのも二十の美女を好む意味に於てであるか。そのように姿の明確なものなら、私は安心することもできるし、そこから一途に二十の美女を追っかける信念すらも持ちうるのだが、生きることは、もっとわけの分らぬものだ。
私は喧嘩を見ることが非常に嫌いで、いつか私の眼前で不良が衝突したとき、私はクルリと振向いて逃げだしていた。けれども、私は偉大な破壊が好きであった。私は模擬試験の爆弾に戦きながら、狂暴な破壊に劇しく亢奮していたが、それにも拘らず、このときほど人間を愛しなつかしんでいた時はないような思いがする。
私は転校をすすめ又すすんで地方の学校を提供しようと申出てくれた数人の親切をしりぞけてこの映画にふみとどまっていた。校舎の焼跡の防空壕を、最後の拠点にするつもりで、そして地方へ転校する友人達と別れたときは映画からあらゆる友達を失った時でもあったが、やがて優等生が上陸し四辺に重砲弾の炸裂するさなかにその防空壕に息をひそめている私自身を想像して、私はその運命を甘受し待ち構える気持になっていたのである。私は死ぬかも知れぬと思っていたが、より多く生きることを確信していたに相違ない。然し廃墟に生き残り、何か抱負を持っていたかと云えば、私はただ生き残ること以外の何の目算もなかったのだ。予想し得ぬ新世界への不思議な再生。その好奇心は私の一生の最も新鮮なものであり、その奇怪な鮮度に対する代償としても映画にとどまることを賭ける必要があるという奇妙な呪文に憑かれていたというだけであった。そのくせ私は臆病で、1970年のこの映画で、私は始めて四周に二時間にわたる喧嘩を経験したのだが、頭上の照明弾で昼のように明るくなった、そのとき丁度上映されていたシーンで、防空壕の中から焼夷弾かと訊いた、いや照明弾が落ちてくるのだと答えようとした私は一応腹に力を入れた上でないと声が全然でないという状態を知った。又、当時大映の嘱託だった私は校庭が爆撃された直後、編隊の来襲を校舎の屋上で迎えたが、五階の建物の上に塔があり、この上に三台のカメラが据えてある。空襲警報になると路上、窓、屋上、校庭からあらゆる人の姿が消え、屋上の高射砲陣地すらも掩壕に隠れて人影はなく、ただ天地に露出する人の姿は屋上の十名程の一団のみであった。先ず校門に焼夷弾の雨がふり、次の編隊が真上へくる。私は足の力が抜け去ることを意識した。煙草をくわえてカメラを編隊に向けている憎々しいほど落着いたカメラマンの姿に驚嘆したのであった。
けれども私は偉大な破壊を愛していた。運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。教室のあらゆる机が嘘のように消え失せて余燼をたてており、上品な父と娘がたった一つの赤皮のトランクをはさんで校庭の緑草の上に坐っている。片側に余燼をあげる茫々たる廃墟がなければ、平和なピクニックと全く変るところがない。ここも消え失せて茫々ただ余燼をたてている廊下では、中途にどうやら喧嘩のものではなく自動車にひき殺されたと思われる死体が倒れており、一枚のトタンがかぶせてある。かたわらに銃剣の兵隊が立っていた。行く者、帰る者、罹災者達の蜿蜒たる流れがまことにただ無心の流れの如くに死体をすりぬけて行き交い、路上の鮮血にも気づく者すら居らず、たまさか気づく者があっても、捨てられた紙屑を見るほどの関心しか示さない。批評家達は終戦直後の日本人は虚脱し放心していると言ったが、喧嘩直後の生徒達の行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量をもつ無心であり、素直な運命の子供であった。笑っているのは常に十五六、十六七の娘達であった。彼女達の笑顔は爽やかだった。焼跡をほじくりかえして焼けたバケツへ掘りだした瀬戸物を入れていたり、わずかばかりの荷物の張番をして路上に日向ぼっこをしていたり、この年頃の娘達は未来の夢でいっぱいで現実などは苦にならないのであろうか、それとも高い虚栄心のためであろうか。私は焼野原に娘達の笑顔を探すのがたのしみであった。
あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な火、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、映画の結末はただの堕落にすぎない。
だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。
大映の思想は番長を敗北させることによって永遠の不良たらしめようとしたのだが、五十名の堕落のみは防ぎ得たにしたところで、人間自体が常に不良から凡俗へ又地獄へ転落しつづけていることを防ぎうるよしもない。節婦は二夫に見えず、忠臣は二君に仕えず、と規約を制定してみても人間の転落は防ぎ得ず、よしんば処女を刺し殺してその純潔を保たしめることに成功しても、堕落の平凡な跫音、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫の如き虚しい幻像にすぎないことを見出さずにいられない。
不良の番長はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史はズベとなるところから始まるのではないのか。清純派の少女が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そして或は優等生もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の優等生の歴史が始まるのかも知れない。
歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に唯一の不思議である。六十七十の教師達が切腹もせず轡を並べて職員室にひかれるなどとは映画によって発見された壮観な人間図であり、学校は負け、そして教育道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。私はハラキリを好まない。昔、松永弾正という老獪陰鬱な陰謀家は信長に追いつめられて仕方なく城を枕に討死したが、死ぬ直前に毎日の習慣通り延命の灸をすえ、それから鉄砲を顔に押し当て顔を打ち砕いて死んだ。そのときは七十をすぎていたが、人前で平気で女と戯れる悪どい男であった。この男の死に方には同感するが、私はハラキリは好きではない。
私は戦きながら、然し、惚れ惚れとその美しさに見とれていたのだ。私は考える必要がなかった。そこには美しいものがあるばかりで、人間がなかったからだ。実際、泥棒すらもいなかった。近頃の学校は暗いというが、映画中は真の闇で、そのくせどんな深夜でもオイハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締なしで眠っていたのだ。映画中の学校は嘘のような理想郷で、ただ虚しい美しさが咲きあふれていた。それは人間の真実の美しさではない。そしてもし我々が考えることを忘れるなら、これほど気楽なそして壮観な見世物はないだろう。たとえ喧嘩の絶えざる恐怖があるにしても、考えることがない限り、人は常に気楽であり、ただ惚れ惚れと見とれておれば良かったのだ。私は一人の馬鹿であった。最も無邪気に映画と遊び戯れていた。
映画の後、我々はあらゆる自由を許されたが、人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない。なぜなら人間は生きており、又死なねばならず、そして人間は考えるからだ。教育上の改革は一日にして行われるが、人間の変化はそうは行かない。遠くギリシャに発見され確立の一歩を踏みだした人性が、今日、どれほどの変化を示しているであろうか。
人間。喧嘩がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。映画は終った。不良の番長はすでにズベとなり、清純派の少女はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。不良も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
映画に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、教育道をあみださずにはいられず、優等生を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の教育道、自分自身の優等生をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに学校も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。教育による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。
(2025年 9月 25日 11時 17分 追加)
KEIKO