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絶版 ☆ 図説日本泳法―12流派の秘法 古式泳法 白山源三郎 (著)
1975年5月 日貿出版社 初版発行 正誤表付き
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日本泳法(にほんえいほう)は古式泳法とも呼ばれる、日本古来の泳ぎ方のことである。通常の泳ぎ方のみではなく、甲冑を着用しての着衣水泳というべき泳法や、水中での格闘技術や立ち泳ぎでの射撃などの武術としての水中での戦闘技術も含む(流派によっては操船術も含む)ものである。これらは、明治以降の名称であり、通常は「水術」「水練」「踏水術」というのが本来の名称である。 海や河での戦闘するための泳ぎで武術と同じく、江戸時代に発展したものが多い。現在、12の流派が日本水泳連盟により公認されている。 なお、技法にはシンクロナイズドスイミングと共通するところもある。
【流派】 1. 水府流(水戸藩) 水戸藩初代徳川頼房以来の伝統で元和5年(1619)伊勢如雲の伝えた下町泳ぎの系統と島村孫右衛門創始による上町泳ぎとが文政期に9代藩主斉昭の命により他の同藩の武道と同様に「水府流」という名称で統一された。同流は煽り足横泳ぎを基本とし那珂川で修練された。一般に「のし」という呼び名で定着している横泳ぎで、先手を掻く上町と先手を伸ばしたままの下町の泳ぎが特徴的である。現在は昭和45年に両系統全教場で組織した水府流水術協会が水戸市無形文化財の保持団体として同流の伝承・普及に努めている。
2. 向井流(江戸幕府) 江戸幕府御船手向井家に相伝されてきた流儀といわれ、会津藩士高津助之進より皆伝免許を得た佐倉藩士笹沼龍介が安政4年(1857)7月に江戸の向井家を訪ね、文政元年(1818)向井正通が書き遺した「向井流水法秘伝書」を奉呈した。煽り足を基本とし、半立体での踏み込み煽りは他に類を見ない。廃藩後その子笹沼勝用は東京に出て柔術を指導するとともに隅田川浜町で向井流教場を開き、広く同流を指導した。その中で鈴木正家は「向井流水練道場」で上野正幸・徳太郎親子に伝承。山敷徳次郎は岩本忠次郎に伝承。岩本は北海道小樽の地に指導・戦時中疎開をするなど関係を深めた。上野徳太郎は日本泳法大会で資格審査首座を務めるなどし、同流の普及に努めた。平成3年小樽市では市の文化として同流が定着したと認め、無形文化財に指定した。現在は向井二郎が13代宗家を継いでいる。
3. 水府流太田派(東京) 水戸藩士の太田捨蔵が水府流上町泳ぎを習得後、江戸の講武所に入り、諸流を学び、明治11年隅田川浜町河岸に「水府流太田派道場」を開いた。水府流に他流の泳法の長を加え短を補い、あらゆる水勢に適応できる実用の游泳術として「大日本游泳術」を創称した。4代本田存が東京高等師範学校で指導したことから学校を通じて広く全国に広まった。実用本位なので各団体によって少しづつ泳形や主張が異なる。現在8代家元山口和夫が各団体をまとめている。
4. 観海流(津藩) 武州忍藩の浪人宮発太郎信徳が諸国遊歴中に紀州で水練の技を習得し、嘉永5年(1852)に津藩に立ち寄った。宮発太郎の泳ぎを藤堂高克が「観海如陸」と賞賛したので以後流名となった。嘉永6年5月藩校「有造館」の武術教科に採用され、宮発太郎が津を去った後は免許皆伝を許された山田省助が指導した。明治11年山田省助は初代観海流家元として道場を再興した。同流は蛙足平泅(ひらおよぎ)による遠泳という分かりやすい指導方針で海難や海軍で役立てるために全国に広まった。昭和32年6月には津市の無形文化財に指定されている。現在山田謙夫が4代家元を継承し、津市で観海流教室を開いている。
5. 能島流(紀州藩) 寛文9年(1669)瀬戸内の倉橋島出身の名井仙兵衛重勝が「継船」の秘伝をもって紀州藩伊勢松阪目付として召抱えられたのを始まりとする。倉橋島は古くから造船所のあったところで、そのため能島村上水軍と関連付けられて現在の流名となった。実際の泳ぎ師南は孫の名井仙兵衛氏映の時代(紀州7世宗将)からであり、「継船」と「懐中浮沓」を相伝している。蛙足平游を基本とし、鯔飛・抜手などの立体系の技術など、他の紀州藩の泳ぎと同様のものを平均的に備えている。現在は浪花游泳同士会の流れを汲む浜寺水練学校で指導され、師範伊佐美璋子が21代宗家を継いでいる。
6. 岩倉流(紀州藩) 肥後熊本出身の岩倉山左衛門重安が慶安2年(1649)に紀州藩に召抱えられた。重安の孫、郷助重昌が、宝永7年(1710)に諸士水芸の世話を仰せ付けられたのに始まるといわれている。「足巻き」と称する基本足は煽り足の変形で片足だけではなく、両足を巻いたとも言われ、明治維新頃までは使われていたが現在では蛙足を使っている。鯔飛・掻分などの跳飛術を多人数で行うなどの特徴を持つ。現在和歌山水練学校で12代宗家那須賢二により指導されている。
7. 小池流(紀州藩) 元和5年(1619)徳川頼宣が駿河(静岡県)より紀州(和歌山県)へ入国した時、船手奉行竹本丹後配下の水軍の士として従った小池久兵衛成行を流祖とし、蛙足平泳ぎを基本としている。 4代小池房長は水芸(水泳)の技術優秀なるをもって、藩主より「水右衛門」の名跡を賜り、以降7代敬信まで代々水右衛門を襲名している。 明治になって和歌山の小池水泳場出身の本間秀二郎が大阪の堂島川に水練学校を開き、浜寺水練学校の初代師範井上康治・富造兄弟をはじめとする多くの人材を産み出し、浪花游泳同士会を結成して阪神地方の水泳普及に大いに貢献した。 幕末の資料によると、小池家は自身の流儀を野嶋流水芸と名乗っていた。その為、阪神地方では小池家の流儀を一般に野嶋流と呼んでいた。 一方伊勢(三重県)田丸では、天明6年(1786)4代房長の門弟、加藤良房が城主の命により、外城田川及び宮川で小池流と称し藩士を指導、以後代々高弟が師範を継承し、廃藩まで続いた。 加藤良房の曽孫竹雄は明治34年(1901)名古屋水泳協会を設立し、京浜地方に広く小池流を普及指導した。竹雄の後継者、長男加藤石雄は昭和6年(1931)9代小池長之助より道統を譲られた為、和歌山・田丸の二系統が統一され、今日の小池流になった。
8. 神伝流(松山藩・大洲藩・津山藩) 伊予大洲藩士加藤主馬光尚が肱川端の青柳が水の流れに弄ばれるのを見て「水陸一致」の妙旨を悟ったと言われている。寛政9年(1797)に7代箕島正利の高弟伊東祐根は松山藩に養子となり指導。9代祐雄は寛永元年(1848)に津山藩士植原六郎左衛門に10代宗師を贈り、3男銃郎が東京で日本游泳協会を設立し、東京帝国大学、旧制一高などの学校でも教授された。煽り足の泳ぎが基本であり、できるだけ身体を沈めることが浮きにつながると言う考え方は他に類を見ない。現在は津山に19世宗師今村龍三を置き、東京・岡山・倉敷・広島・大洲などで指導されている。
9. 水任流(高松藩) 寛永19年(1642)藩主松平頼重が常陸の国下館より高松藩に移封される時に従った今泉八郎左衛門盛行が游泳目録12ヶ条を藩主に奉呈し、翌20年夏から高松の堀留で藩士に練習をさせた。藩主との関係から水戸の水府流との関係が深いと言われ、明治時代には星野平次郎が「水府流水任游泳術」と唱えたが、大正14年(1925)に大日本游泳連盟創設に際し「水任流」と称した。同流は立体煽り足泳法を主とし、現在は逆煽り足を使う横泳ぎを特徴としている。初心者が大の字という浮き身術から練習を始めるのも他流に類を見ない。現在は松平家の御当主を会長として水任流保存会を結成し、福家恵美子師範により高松市指定無形文化財として普及・伝承されている。
10. 山内流(臼杵藩) 文政5年(1822)四国松山の浪人山内久馬勝重が藩士稲川清記に指導したのに始まる。勝重は神伝流の伊藤祐根の門人、臼杵への途中津山にも立ち寄っている。しかし泳ぎ方は神伝流とは違い、「渡海」と称して大旗を振り回す技術などは同流独特のものである。「勝重流」とも称され、稲川清記の門人が「清記流」と呼ぶなど流j儀を人名で呼ぶことが特徴といえる。現在臼杵市教育委員会が主催して練習会を開いている。また稲川清記の門人矢野亀太郎が明治時代に別府で分派した「清記流矢野派」が大分游泳協会として継続されている。
11. 小堀流(熊本藩) 宝暦6年(1756)「踏水訣・水馬千金篇」を著作し、出版した小堀長順を初代師範としている。これはわが国の印刷出版された水泳書籍としては最も古いものである。明治になって7代師範小堀平七は学習院に奉職し、皇室・皇族に同流を指導した。10代猿木恭経も学習院で指導。京都・長崎にも伝わっている。基本の「手繰游」から7種類の技術があり、それらが系統だって成立している。特に「立游」は他に類を見ない。また飛び込みが技術書に無いことも一般に知られていない特徴といえよう。現在熊本に踏水会があり、11代古閑忠夫師範のもとに練習が行われている。
12. 神統流(薩摩藩) 島津家に仕えた黒田家により継承された流儀。8世頼宗は明応2年(1493)水迫仙法「捨の業」を完成。明応5年(1496)9世頼房が「抜の業」を明応7年(1498)弟10世頼定が「差の業」を完成し、水迫仙法「業三品」が完成したといわれている。さらに頼定が天文2年(1533)に「神統流道本の巻」を示したので、神統流初代としている。「捨の業」とは浮身のこと。「抜の業」とは抜き手のこと。「差の業」とは平泳ぎのこと。現在は18代黒田清定が平成9年「神統流研究会」を新たに発足させて普及に努めている。
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